やまのがっこうプロジェクト 特集コラム

あの日の覚悟

LIMO 通信 vol.39より

一昨日、東日本大震災被災地の皆さんの視察案内のお手伝いをした。

その一行のなかに5年前、中越大震災被災地を訪ねてくれた自治体の職員の方がいた。

随分と長い歳月が流れていたが、私は彼を、彼は私をはっきりと覚えていた。

「ご無沙汰していました。あの時、中越にお邪魔していろいろ教えて頂きましたが、

震災遺構は残して良かったのだと思っています。今日は、退職してから始めての遠出です。

というより、苦労ばかり掛けてしまった家内の慰労旅行ですけれど」。

奥さんとはその時、初めてお会いしたのだが、

「いきなり、どこか行きたいところはあるかと主人に聞かれ、

中越へ行きたいとお願いしたのです」と言う。

「何故、中越なのですか」と尋ねてみた。

「主人が中越視察から帰ってきたあの日、どこか吹っ切れた、

覚悟を決めた顔になっていたことを、今でも思い出します。

あの日、主人が中越で何を見て、何を聴いたのか。

私も知りたかったものですから」と即答してくれた。

5年前のあの日、「東日本大震災の過酷な現実をどこまで伝え、どこまで残すべきなのだろうか」、

中越に視察に訪れた一人の男性が私に問いかけてきた。

その男性こそがご主人で、当時は、東日本大震災によって

様々な被害を受けた被災者と日々向き合っている自治体の職員だった。

しかも、彼自身も、東日本大震災で二人のご家族を失っていた。

当時、ほとんどの自治体が「震災遺構」の取り扱いには苦慮していたし、

中越を訪れた被災地自治体の職員の声は、一様に悲痛な叫びに聞こえた。

しかし彼らの多くは、この問題から逃げることも、避けて通ることもできない状況にあった。

今、東北の各地で被害を受けた建物や建造物の幾つかが保存されている。

一方で、震災遺構が「観光資源化」してしまうのではないかと危惧する声は今も残っている。

東日本大震災で身内を亡くされたご遺族の方々にとっては、

無残な津波被害の跡を人為的に残し、

ずっと見続けていくことは大変難しいことだとする意見も根強く残っている。

5年余の歳月が流れた今、彼に「震災遺構を残すことを選択した自治体として後悔はないのか」と聞いてみた。

「当時、私は自分の脳裏から、あの東日本大震災の記憶が薄れていくことはないと断言できる。

もし、万が一大津波が再度押し寄せたなら、どうあっても残された家族を高台に逃がし、

一人の命も失うことはしないと答えたことを覚えている」、その思いはさらに強くなっていると言う。

「だが、これから生まれてくる私の孫が、私たちの子孫が大津波から逃げ切れるかどうか分からない。

彼らには、あの恐ろしい体験も記憶もないのだから」と痛感した当時から、

伝え続けるとはこういうことなのだという手が打てていない状況だと言う。

「逃げれば助かったはずの命」。

これからも災害大国日本に暮らし続ける私たちは、

百年の計を見据えた「震災伝承体制の整備」が問われている。