やまのがっこうプロジェクト 特集コラム

ある老婆の決意

LIMO 通信 vol.42より

一人暮らしの老婆が長年住み慣れた家を後にしたのは、

今から5年前、中越大震災から10年目の暮れも押し詰まり、お正月まであと10日余りのことだった。
後でお孫さんは、「おばあちゃんは、次の誕生日で運転免許証を返納し、
私たちが住む広島へ移り住むことを決めていたのですが、
隣り近所に何故、その歳になってまで広島へ移り住むのかと聞かれて、
孫娘の旦那の実家も錦鯉を育てる「鯉師」の血が流れている家だからと答えていました」と教えてくれた。
確かに、今は亡きご主人も中越の地で錦鯉を育て、
ご主人の祖父母の代から養鯉業を生業としながら、雪深い中越の地で生き抜いてきた人たちだった。

 

その老婆が、今年、珍しく私に年賀状をくれた。
書かれていた文面からは、かつて気丈な老婆の面影は感じられなかったのだが、
中越大震災被災後の聞き取り調査に対して「私は一人になっても生まれたところで死ぬ、そう決めている。
だから山に帰る」と言い続けた、かつての老婆を彷彿とさせる一文があった。

 

その年賀状の文面はこうだ。
「今年は例年に比べて雪が極端に少ないと聞いています。
私でも出歩くにさしたる苦労はないと思いますので、山に帰ることにしました」。
年賀状が届いてから数日して、お孫さんから連絡がきた。
「突然のお電話すみません。
おばあちゃんが山に帰ると言い出してきかないのです。
私たちは付いていけないのだから、せめて山に住んでいるどなたかに相談してみたら。
私もお願いにいくからと言うと、
おばあちゃんの口からお名前が出てきたものですから、失礼とは思いましたが、お電話させて頂きました」。
続けて、
「おばあちゃんは、雪が嫌で山を下りたわけでも、山が不便だから嫌になって山を下りたわけでもないのです。
小学校に通っている私の息子が虐めにあって不登校になってしまったのですが、
下の娘の幼稚園の事もあって、共稼ぎの私たちは他のところに引っ越しもできずにいました。
それを見かねたおばあちゃんが、広島に出てきて息子と向き合ってくれていたのです」。
聞くと、老婆が引き籠りのお孫さんの長男を連れて山に戻ろうとしているらしいことも、
その長男がおばあちゃんは大好きだけれど、一緒に山に連れて行かれるのは嫌だと言っていることも分かってきた。

 

私は、「雪が融けて棚池に鯉が放たれる頃になったら、
おばあちゃんに貴方のお子さんを連れて山で暮らして下さい。
山の皆んなが待っているから」とお話した。
すると電話機の向こう側から、「きっと、おばあちゃんも、息子もよろこびます。
おばあちゃんが作る山の料理が大好きですから」と嬉しそうに言ってくれた。

 

私は雪解けと同時に、少しの間、主を失ってしまっていた「空き家」を訪ねて、
山の春風を部屋に通しておきたいと思いながら電話を置いた。