やまのがっこうプロジェクト 特集コラム

住めば都

LIMO 通信 vol.45より

先々月、旧山古志村・旧川口町(現在はともに長岡市)など、
中越大震災での激甚被災地では「中越地震15周年追悼式典」が催された。
旧山古志村では、全村民離村を余儀なくされてから最長3年の仮設住宅での避難を経て、
多くの住民が山に戻り、毎年、同じ場所で追悼式典を続けてきた。
必ず出席していた追悼式なのだが、
式典の後、老夫婦からある相談事を持ちかけられ、今年の10月23日は少し違った日となった。

 

その相談事とは、中越大震災の折に老夫婦が住んでいた家が全壊認定され、
帰村後に新しく建てた一軒家に住まないかとの打診だった。
「あんたは新潟市の町場に住んでいると聞いたんだが、わしらの家と交換して欲しい」と真顔で言う。
唐突な話ではあったのだが表情は真剣そのものだった。
だが、とても即答できる話ではなかった。その場は、むしろ嗜めるように「息子さんにお譲りになるなり、
売却して山を降りるなりした方が好いんじゃないですか」と話してみた。
その日、話はここで終わっていた。

 

もう、この話はないだろうと思っていた2日後の夕食時、電話は掛かってきた。
「この間の話だが、もう一度考えてもらえんか。わしらは本気なんじゃ」と少し怒ったように言う。
今、老夫婦の家は、帰村して直ぐに住み始めた家だから、まだ築10年余という新築なみの一軒家のはずだった。
それに比べて我が家はと言えば、一戸建てだが木造で築40年。
1981(昭和56)年の新耐震基準を満たしていない物件だった。
「我が家をご覧になったことはないでしょう。もう、既に築40年を超えようとしている家なんですよ。
山を降りたいというご相談には協力しますから、もう少しお話ししませんか」、こちらも強い口調になっていた。

 

いつもより長くなっている電話のやり取りを聞いていた家人は、
受話器を置いた私に向かって、「私が奥様に、とても我が家は交換できるような家ではありません。
お二人が冬場だけ住めるような家を町場近くで、ご一緒に探してみませんか」と
提案してみるのもいいかもしれませんねと、事も無げに言う。
「私も上越の雪深いところで育ったから分かりますけれど、雪掘りがままならなくなっているんですよ、きっと。
かといって村の人たちには迷惑をかけたくない」
「冬は山を降りて、暮らしてもらうにしても、少しくらい町場から離れても大丈夫な人たちなんですから」。
家人の提案は、12月から翌年の雪解け3月末まで町場近くの空き家への短期移住だった。
「畑の野菜づくりが忙しくなる季節、山菜採りに、キノコ採りも大忙し。
やはり山の暮らしが好いんですよ」と、こちらも真顔で言う。

 

「住めば都」とは、誰の言葉だろうか。
辞書を引けば、「住めば都とは、どんなに辺鄙な場所であっても、
住み慣れれば都と同じように便利で住み心地がよいということのたとえ」と教えている。
山で生きている人たちを身近に見ていると、「住んでしまえば都になる。
そこに住めば、そこでの住み方を工夫する。
それは生き方に対する創意工夫であり、山の暮らしに適した文化の創出でもある」と学んだ筈なのに、
まだまだ知恵が足りない。