やまのがっこうプロジェクト 特集コラム

帰ろう山古志へ

LIMO通信 vol.36より

今年の8月18日、旧山古志村の村長「長島 忠美」が逝った。
享年66歳である。
13年前の平成16年10月23日に発生した中越大震災では、その翌日に、
全村民2,200人を自衛隊のヘリコプターで25km先の長岡市へ避難させる決断をした男だった。
山古志の人は、衆議院議員である「長島 忠美」を、ずっと村長と呼んだ。
私が彼と最初にお会いしたのは、
長岡市との合併を目前にしていた、紛れもない「山古志村」村長時代だった。
その年の12月18日に「山古志復興新ビジョン研究会」を立ち上げる旨をお話しするために、
旧長岡市役所に間借りしていた「旧山古志村」役場を訪ねたときだった。
きちんとお話を聞けたのは、翌平成17年2月18日のことで、
国土交通省北陸地方整備局の広報誌の取材インタビューのときだった。
山古志の惨状は新聞やテレビで余すところなく伝えられていたのだが、
私は、あえて被害の様子からインタビューを始めた。
確認しておきたかったのは、
全村民を山からおろす決断をし、再び住民を山へと帰すことができるのかの一点だった。
村長の答えは、何度聞いても
「山古志の住民は、山古志で生き抜くのが一番いい。特に高齢者は、まちで生きていくとなると、それだけでも大変なストレスになる」とぶれることはなかった。
復興祈念9周年事業として実施した「やまこし復興交流館おらたる」の
オープニングセレモニーへの出席をお願いするために訪れた地元の事務所では、
「いい施設になった、皆さんのお蔭だ、是が非でも出席させてもらいます」
と参列を快諾してくれたあと、
「実は、発災後いち早く民間有志で立ち上げて、山古志の復興の有り方を検討してくれた『山古志復興新ビジョン研究会』の提言が私を勇気づけてくれた。提言は、研究会で実施してくれた住民意識調査アンケートの手法と分析結果を最大限尊重してのものだったからだ。地元の3大学(長岡技術科学大学・長岡造形大学・長岡大学)の学生を動員して、仮設住宅で避難生活を余儀なくされていた住民一人ひとりに直接面談で聞き取り調査をしてくれたことだ」と当時を振り返った。
「そうでしたね。あのときは、1月の豪雪のなか、学生が長岡ニュータウンの一画『陽光台』に建てられた仮設住宅の一世帯一世帯すべてを訪ねて意向をお聞きしました。ご高齢で、お一人で仮設生活を送っていたおばあさんにも、働きに出ていて、なかなかお会いできないおとうさんにも、丁寧に、粘り強く訪問して聞き取り調査をしてくれました。結果、93パーセントを超える皆さんが、山古志へ帰りたい。山で暮らせるのなら頑張る、と自らの『意志』と『覚悟』を示してくれました」と答えた私に、
「だから、帰ろう山古志へ、だった。私にとっても、住民にとっても、多くのボランティアの皆さんにも、実に重い一言になった」と語ってくれた。
村長と呼ばれ続けた「長島 忠美」は、
確かに山古志の未来への扉を拓いて逝った。