やまのがっこうプロジェクト 特集コラム

故郷への想い

LIMO 通信 vol.41より

9月上旬のある日、突然、我が家に一枚の便箋と「石榴(ざくろ)酒」、
「無花果(いちじく)ジャム」が詰められた木箱が贈られてきた。
なかに入っていた便箋には、
「昨年も何の手入れもしない、我が家の庭にある石榴の木から、たくさんの実が採れました。
つい嬉しくなって石榴酒を造ってみました。
風邪を引くと咳き込んでいた下のお嬢さんに飲ませてあげて下さい。
もう一つ、無花果の木からもたくさんの実が収穫できました。
少しジャムを造ってみましたので、ご賞味頂ければと思います。
上のお嬢さんが美味しい、美味しいと食べてくださった自家製ヨーグルトに入れて召し上がって頂ければ、
美容にもよいと思います」と、優しい字で書き留められていた。
その優しい字を見たとき、贈り主は私の高校の後輩で、
実家は中越大震災被災地にある集落出身の女性だと気付いた。
今は結婚して神奈川県に住んでいるのだと知人に聞いていたことを思い出した。

 

数日後、どうして今になって「石榴酒」と「無花果ジャム」を贈ってくれたのか気になって、
木箱に貼られた彼女の自宅の住所に電話してみたのだが、何度かけても誰も出ることは無かった。
この11月、所用があって彼女の実家の近くを訪ねる機会があり、帰り掛けに立ち寄ってみた。
すると、訪ねた住所にすでに彼女の実家は無く、空き地となってしまった庭であったろう場所に、
「石榴」と「柿」、それに「無花果」の木が1本ずつ残されていた。
在りし日の空き地の主を知る古老は、「中越大震災の前まで、この空き地には百年もの間、
風雪に耐え続けた旧家があったが、地震で半壊して家どころか納屋も解体された」と残念そうに教えてくれた。
そして、「爺さんの後を継いだ長男は、半壊となってしまった家を直す選択をせずに解体し、
神奈川県に嫁いだ妹にも告げずに引っ越して行った。
奴の決断は早かった。集落の誰にも相談することもなく出ていって、今も音信不通のままだ。
厳しい爺さんだったし、村の誰にも一目置かれる人だったからな」と言う。
続けて「今、この集落は年寄りばかりになっている。
住民も毎月のように一人減り、二人減りだ。去年は大雪だったこともあるが、
役場に何度頼んでも除雪車がいつ来るか分からない」。
古老の話を聴いている脇で、「無花果」の実をついばむ鳥と、熟して地に落ちた「柿」の実を
巣に持ち帰る小動物が忙しく冬支度をしていた。

 

中越大震災の後、ここは耕作放棄地になったわけでもなく、空き家があるわけでもない。
土地の所有者は現存するのだがどこに居るか分からないまま、すでに14年の歳月が流れている。
明治初期の記録を紐解くと、かつて、この集落に500人を超える住民が住んでいたと記されているが、
現実にはこの集落は消え去ろうとしている。

 

彼女は、きっとつい最近まで生家があったこの土地を訪れていたに違いない。
私はせめて、毎年ここに来て「石榴酒」と「無花果ジャム」を造り続けたいと思い始めていた。