やまのがっこうプロジェクト 特集コラム

東京からの小さな来客

LIMO 通信 vol.44より

35度を超える猛暑日が続いたある日、
美しい雲海が見られることで知られるこの地域でも、一二を争うビューポイントを訪ねてみた。
特別な用事があったわけでも、理由があったわけでもない。
一服の清涼を求めて訪ねたのだが、そこで喧嘩をしている姉弟に出会った。
姉弟は、私がいることなど気に掛ける様子もなく、言い争いを続けていた。
よくよく話を聞いていると、
お姉さんはここから見える美しい棚田・棚池をスケッチして、
夏休みの絵の宿題を完成させたいらしいことが分かってきた。
それに反して、弟は、村のお爺さんに聞いたのか、
ここからさらに奥に進んだ林のなかに、カブトムシ、クワガタムシがたくさんいて、
そこで昆虫採集をしたいのだとお姉さんを即す。
やはり、夏休みの宿題で提出する「昆虫標本」づくりのためらしい。
しばらく喧嘩を傍観していたのだが、埒があかない。
小学生であろう弟が、「もうすぐ東京に帰るから、今日中に捕まえたい。
お姉ちゃんの絵の宿題は、スマホで撮影すれば、東京に帰ってからでも描けるじゃないか。
僕の昆虫採集は、本物を捕まえないといけないんだから」と言う。
それに対してお姉さんは何か言いかけたが口を噤んだ。

 

私は、二人の喧嘩に割って入った。
「おじさんも、この奥の林に昆虫がたくさんいることは、集落のお爺さんに聞いたことがある。
“虫たちは夜になると出てきて、木々の汁を吸うんだ”と言っていたよ。
だから、夜、村の人たちと一緒に奥の林にいったらどうだろう。
お姉さんの写生は、夜にはできないから、今、下絵だけでも描いたら」と諭してみた。
すると、お姉さんが、予想もしない解決策を提案してきた。
「そう言えば、私、田舎のお爺ちゃんの家に遊びに来てから書いた絵は、みんな夜の絵ばかりなんです。
数えきれないくらい、たくさんの星が見えた夜空を描いたし、
田んぼに続く用水路を飛び交うホタルも描いた。
それに、山の上から見た長岡花火も描きました。
田舎にくると夜も楽しい。
いいわよ、私、夜の虫取りの絵を描くわ」と言う。

 

いつの間にか姉弟の喧嘩は終わっていた。
私も、姉弟と一緒に切り株に腰を下ろし、眼下に見える棚田・棚池を眺めながら、
二人が持ってきた少し薄味の梅干しを頬張り、水筒の水を貰って飲んでいた。
「この梅干しを食べて、水を飲んでいれば熱中症になんかならないって、お爺ちゃんが教えてくれた。
お爺ちゃんは、山の事は何でも知っているんだ」
私に向かって誇らしげに言う姉弟の顔は輝いていた。
東京からの小さな来客が、この地域の本当の価値に気づいているのかも知れない。